片手で指さしながら、振り向くともうそこには、さっきまでいたはずの、客の影も形もない。
「オヤ、いねえや……」
見物人が、崩れるように笑いどよめいた。俥夫が喧嘩しているうちに、客は只乗りをして逃げてしまったのであった。
とうとうすぐ傍の交番へ引かれて、軒先に燈っている赤い小さい電燈を見た瞬間、どこかへ行っていた庸之助の正気が、フーッと戻って来た。
「俺は一体何をしたのだ? 馬鹿な!」
庸之助は、もうジッとしていられないほどの心持になった。彼が口癖のように云い云いした、「良心の呵責」が一どきに込み上って来たのである。
巡査は酒を飲んでいるかと訊ねた。飲んだと答えはしたものの、実際は飲んでいなかった。けれどもどうにかして、こんな下らない、恥かしい自分の位置の弁護となる理由を探したかったのである。傍にいた年寄が、酒の上のことだからとしきりに、庇ってやった。そして「お互に若いときというものは、とかく気が荒いものでなあ」などと、巡査に巧く勧めた。ちょっと見物の手前、訓戒めいたことを喋って、そのまま、巡査は庸之助を許してやったのであった。
町はますます賑やかに、華やかになって来た。敷石道を、水を流したように輝やかせているいろいろの電燈。明滅するイルミネーション。楽隊。警笛。動きに動いている辻に立って庸之助は、呆然としている。ただ開けているだけの彼の目の前を、幾人もの通行人、電車が通り過ぎた。そして、或る一人の若者が、自分の顔をこするようにして通りかかったとき、庸之助は思わずハッとして反動的に面をそむけた。
「浩だッ!」サアッと瀧のような冷汗が、体中から滲(にじ)み出すのを感じた。彼は恐る恐る頭を回して眼の隅から、今行き過ぎようとする若者の後姿を窺(うかが)った。いかにもよく似ている。そっくりその儘である。けれども浩ではなかった。若し彼なら、これほど近くにいる自分を見ないで通り過ぎることは、絶対にないからである。そう思うと、何ともいえない安心が庸之助の心に湧き上った。そして、今まで気付かなかった秋の夜風が、ひやひやと気味悪く濡れた肌にしみわたった。彼はホッとして、額を拭きに手を上げたとき、そのとき、その瞬間! ようよう落付いた彼の頭に、電光のように閃いたものがある。それは浩が、常に云い云いした「強く生きろ!」という言葉であった。
「強く生きろ! 強く生きろ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
庸之助は、今日までこんなにも悪く悪くと進んで来たにも拘らず、未だ自分を悪くなりきらせない何物かがあることを感じた。彼の言葉を思い出した瞬間、いかほど内心の或る物が動揺しただろう。彼はいても立ってもいられなくなった。「こうしてはいられない。どうにかしなければならない。」彼の目前には、体中に日光を輝かせて、勇ましく働いている浩が、両手をあげて自分をさし招いているのがまざまざと見えた。「こうしてはいられない!」彼はもう、目にも届かない、暗い深い谷底へと、ずるずる転落する自分を見離すことは出来ない心持になった。どうにかせずにはすまされない心持――。庸之助はそれが「希望」であることを覚ったのであった。
「希望!」
父親の入獄以来、自分には絶対に関係ないと思っていた「希望。」
「ああ! 俺にはまだ希望があったのだ!![#「!!」は横1文字、1-8-75] 希望が!」庸之助はこわばっていた心が、端からトロトロと融(と)けて来るのを感じた。名状しがたい涙がこぼれ出したのである。

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